●● 友達ごっこ --- すきなひと ●●
蓮子に恋人がいない、そんなことは滅多にない。そんなわけで、久々に蓮子と二人で帰ることになった。
誰もいない下駄箱の前でしゃがみ込み、わたしはスニーカーの靴紐を結ぶ。蓮子は文句を言いつつも、玄関の庇のところで待っていてくれた。
「全く。こう雨ばっかり続くと、気分まで重くなる」
灰色の大きな傘――男物かもしれない――を振り回しながら、蓮子は目を伏せた。気のせいか眉間には深い縦皺が走っている。言葉はわたしに向けたというより、ぼやきに近い。
「そう? わたしは結構好きだけどな。梅雨時って。なんか雨が降る前の匂いっていうのかな……独特で。懐かしい感じがする」
「『洗濯物の皺もよく伸びるし』でしょ。……あんたって本当、アイロン掛け好きだね」
図星を刺されてわたしは肩を竦める。やっと靴を履き終えて、蓮子の側へ行くと、「遅い」と頭をはたかれた。
「それもあるけど……梅雨明けの頃、わたしの好きな花が咲くから」
「あァ、あじさい? あれ形が不気味じゃん」
「違うよ。第一、あじさいならもうとっくに咲いてるでしょ。わたしが好きなのはくちなし。あの花の香り、凄く好きなの。甘くて……どこか切なくて。昔、近所の庭に咲いてたんだ。梅雨の終わりになると、勲雄と一緒にわざわざ遠回りして帰ったなぁ」
懐かしさに思わず目が細くなる。
突然、首を傾げて蓮子がわたしを見つめてきた。何か変なことでも言ったかな。
「ねえ……」
「あ、蓮子サンに永久ちゃん。今帰り?」
蓮子が何かを言おうとしていたみたいだけれど、言葉の後半部分は哲己くんの声にかき消された。
下駄箱の所を振り返ると、案の定そこには彼がいた。
「そ。こてっちゃんは、部活?」
「んにゃ。水泳部なんて、夏だけの部だろ。こんな早くには、やんねーって」
哲己くんは靴の後ろを踏んだまま紐も結び直さないで、スリッパみたいに履いてすぐにこちらに駆け寄ってきた。
「哲己くんって水泳部だったの?」
「おうよ、中学ん時からずっと。……お陰で年中日焼けしたままだし、塩素で髪の色素が薄くなるし。……生活指導に睨まれて、ろくなことないぞ」
……知らなかった。とっくに哲己くんの外見なんて気にならなくなってたけれど。でもわたしが苦手だった所も何もかも、勘違いだったなんて。哲己くんは女の子とよく遊んでて、髪も染めてて、肌だって日焼けサロンで焼いてて……そういう人だと思ってた。もちろん、本当にそういう人だったとしても、今は特に気にならないけれど。
哲己くんと接するようになって、わたしの世界は広がった。
「何、ボーっとしてんの?」
哲己くんの声でハッと我に返る。
「気にしない、気にしない。こいつなんか、いつもこうだから」
「酷い。それじゃ、まるでわたしが常に呆けて過ごしてるみたいでしょ」
「「え、違うの?」」
二人の声の揃った問いかけに、わたしは反論することができなかった。わたしがしゅんとすると、哲己くんは軽く笑みを浮かべ、「冗談だって」とわたしの肩を軽く叩いた。
「……しっかし、雨、やまねーな。朝は殆ど降ってなかったから油断した」
そこでわたしは、哲己くんの手に傘が無いことに気づいた。右手でわたしの緑色の折りたたみ傘を差し出すと、哲己くんは要らない、と言って突き返してきた。
「だって、なんか悪ィじゃん。方向が一緒なら中入れて貰ってもよかったけど、男子第一寮とは逆だろ」
「でも……濡れちゃうよ?」
「大丈夫だって。じゃな、二人とも」
側に寄ると、なぜか彼は頬を赤らめ、校庭へと走っていってしまった。水たまりもものともせず、勢いよく泥水を蹴り上げて。
「小学生か、アイツ……。じゃ、私たちも帰ろう。雨が強くならないうちにサ」
蓮子の言葉に曖昧に相づちを打ちつつ、哲己くんが豆粒大になるまで、わたしは彼から目を逸らすことができなかった。
「ねえ、勲雄って誰?」
電気を消して、後は寝るだけという時のことだ。ベッド下段から投げかけられた蓮子の質問に、わたしは目を見開いた。
「……どうして、その名前を知ってるの?」
金縛りのように、体は硬直して動けない。やっとのことで出た声も、ずいぶんと上ずってしまった。
「今日の帰り、こてっちゃんが来る前に自分で言ってたじゃん」
「そっか。……勲雄は、わたしの幼なじみ」
薄い布団をかけ直し、真っ暗な天井の一点を見つめた。小さく深呼吸をして、呟く。
「ねえ、ちょっと長くなるけど、いい?」
すぐに蓮子が寝返りをうつ音と、「いい」という掠れた声が聞こえた。
……わたしの家は、お兄ちゃんもお姉ちゃんもみんな勉強がよくできてね。だから勉強はできなくて、これといった特技もないわたしのことは、父さんも母さんも……それこそいない者のように扱ったんだ。話すときも、こっちを見てはいるんだけど、どこか焦点が合ってないの。……寂しかったなぁ。出来が悪いなら叱ってくれればよかったのに、怒ってさえくれなかった。誰もわたしを必要をしてくれなくて、誰もわたしを見てくれなくて。
でもね、わたしの側にはいつも勲雄が居たの。物心ついた頃からずっと、欲しかったものは全部彼がくれた。だから、別に友達なんていらなかったんだ。勲雄さえいれば、何もいらなかったから。……そうやって、わたしはどんどん自分では何も出来なくなっていったの。ずっと勲雄に依存して、それをおかしいとも思わずにね。
小学生ぐらいの時からかな。段々、勲雄のことを男の子として意識するようになってきたんだ。でも、言えなかった。「今」を壊すのが怖くて。それくらい、そのままの関係が居心地良くてね。
けどね、中学三年になったばかりの頃に、勲雄に彼女が出来たの。彼にそれを報告された時、……ショックだったけどね、なんとか「おめでとう」って笑顔で言えたよ。でも当然のことながら、勲雄と過ごす時間が少しずつ減っていってね。そしたら目の前が真っ暗になった。今までずっと勲雄にばかり頼ってきたから、わたしは自分のことさえ何一つ出来ないの。怖くなった、何もかもが。勲雄が居なければ何もできない現実を、急に突きつけられたみたいで。だから、全寮制のこの高校に入学しようと思ったの。彼女が出来てからも相変わらず勲雄は優しかった。だからこそ今、勲雄から離れなかったら、このまま何も出来なくなる、そう思って。
突然志望校のレベルを一ランク上げたからね、先生にも随分と反対されたよ。でもお姉ちゃんに泣きついて、勉強を教わって、……なんとか補欠合格。嬉しかった。わたしだって一人でなんでもできるんだ、って。
だけど、すぐに後悔した。だって、勲雄がいなくちゃ何も出来ないのは変わってないんだもの。……ここに入って、物理的には勲雄と離れていても、精神的な面ではずっと彼に執着してるんだから。何かあったらすぐに「こんな時、勲雄が居たら」って、そればかり。
でもね。自分で言うのも何だけど、……最近少しずつだけど理想の自分に近づけてる気がするんだ。きっとそれは、蓮子や哲己くんのお陰なの。
「で、今はどうなの? ……今でも勲雄って人のこと、好き?」
「え、何……言ってるの?」
ずっと話を無言で聞いていた蓮子の突然の問いかけに、閉じかけていた瞼が一気に開く。
「あんた、今はこてっちゃんのことが好きなんじゃない? ……自覚ないかもしんないけど、視線がアイツ追ってるよ」
……考えたことすらなかった。わたしが哲己くんを? だって、わたしは心から彼には蓮子と幸せになって欲しいって思ってて。第一、わたしには……勲雄がいるんだから。
思いつく限りの反論を用意しても、喉にはりついて言葉は出てこない。そんなわたしにはお構いなしに、蓮子はすぐに「おやすみ」とぶっきらぼうに言い放ち、すぐに嘘っぽい寝息が聞こえてきた。嵐が吹き荒れる。頭の中の全てのことがごたまぜに絡まっていく。
「……わたしが、哲己くんを好き?」
当分、眠れそうになかった。
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